彷徨うおのこ

死ぬまで死なないぜ おれは

真の満足はどこにあるのか<=オルテガ

すでに述べたように、「絶頂の時代」が存在するための本質的な条件は、数世紀にもわたって実現をあがき求めてきた願望が、ある日ついに現実となることだ。事実、そうした充足の時代は自分自身に満足している時代である。ときには十九世紀のように、満足を通り越してしまう時代もある。しかしながらわれわれは、そのようなあまりにも満足しきっている時代、あまりにも達成されている時代は、実は内面的に死んでいるのに気付く。まぎれもない真の生の充実とは、満足や達成や到達にあるのではない。すでにセルバンテスが「道中のほうがいつでも宿屋よりもよい」と言っている。自己の願望、自己の理想を満足させた時代はもはやそれ以上のものをなんら望まないのであり、願望の泉が涸れてしまっているのである。つまり、あのすばらしい絶頂というのは実は終末なのだ。自己の願望を更新することができないために、ちょうど、幸運な雄の蜜蜂が新婚の空の旅のあとで死ぬように、満足が原因で死滅する時代もあるのだ。
 いわゆる絶頂といわれる時代が、つねにその意識の根底にきわめて異様な悲哀感をたたえていたという驚くべき事実は、実はここに由来している。
 長期間にわたってたいへんゆっくりとはぐくまれ、十九世紀になってついに実現されたかと思われた願望とは、自分自身を要約して「近代文化」と名のったところのものである。すでに名前からしておだやかではない。一つの時代が自分自身を「近代的」、つまり最終的、決定的だと称し、それに対してその他すべての時代を単なる過去、つつましやかな準備の時代、自分に憧れていた時代などとみなすとは、どういうことだろう。これこそ、的をはずれた力弱き矢だといわねばならない。